【映画】レディ・バード【あらすじ、感想など】恥ずかしい過去を振り返ってみよう
のじれいかです。
青春映画、レディ・バードをご紹介します。
決してキラキラしていない、生温くてダサい、夢みがちな女子高生の日常が描かれています。
まるで昔の自分、そう思ってしまうくらい、恥ずかしくも懐かしい気持ちになれる映画です。
『レディ・バード』★★★★★ 近年の青春映画ではダントツ
- レディ・バード・一言でいえばこんな話
- レディ・バード・作品情報(キャスト)
- あらすじ
- 年頃の女の子の繊細な心理
- 母親から旅立つ前の娘の心理
- うつろいやすい恋心
- 新しい出会いと離れていく友
- 「愛情とは注意深く見つめること」
レディ・バード・一言でいえばこんな話
テーマ「愛情とは注意深く見つめること」
ログライン「地元を離れて都会に出たいと思っている夢みがちな女子高生が、家の経済的問題やコンプレックスと闘いながら、友情を育み恋をして旅立ち、家族への愛を実感する話」
レディ・バード・作品情報(キャスト)
公開年度 2017年
上映時間 94分
監督 グレタ・ガーウィグ
キャスト シアーシャ・ローナン、ローリー・メトカーフ、 トレイシー・レッツ、 ルーカス・ヘッジズ、 ティモシー・シャラメ、ビーニー・フェルドスタイン、ロイス・スミス、オデイア・ラッシュ、 ジョーダン・ロドリゲス
あらすじ
自分を「レディ・バード」と呼んでほしいと周囲に吹聴するクリスティン(シアーシャ・ローナン)は、母のマリオン(ローリー・メトカーフ)と大学進学のことで揉めている。「何かをやり遂げたい」クリスティンはニューヨークの大学への進学を希望するが、マリオンは経済的な理由から地元サクラメントの州立大学への進学を勧める。
クリスティンの父、ラリー(トレイシー・レッツ)の会社はリストラの真っ最中、養子の兄ミゲル(ジョーダン・ロドリゲス)は現在失業中でスーパーのレジ係。クリスティンの日常は続く……。
年頃の女の子の繊細な心理
クリスティンの通う高校は、カトリックの高校で裕福な家庭の子女が通う学校ですが、クリスティンは自称「川向こう」の立地の悪い場所に暮らしていて、密かに「場違い感」を抱いています。
親友のジュリーとは話も合うし、無理をせず付き合えている。
学校のシスターもクリスティンの性格を理解してジュリーと同じ学内のミュージカルへの参加を促します。
文化的な「何か」をしたいと漠然と思っているけれど何をすればいいかわからないクリスティンは、誘われるがままにミュージカルに参加し、そこでダニーと出会い淡い恋を経験します。
母親から旅立つ前の娘の心理
父ラリーの送迎で学校に向かう途中、クリスティンはマリオンに隠れてニューヨークの大学の受けること、助成金の申請をしてほしいと頼みます。
娘の役に立ちたい気持ちと、マリオンがクリスティンを側に置きたがっていて、地元の大学へ進学させたがっていることを知っているラリーの心は揺れます。
でも結局、自由になろうとする人間を誰も止めることはできないもの。
クリスティンの街を離れる決意は堅いものでした。
しかしそんなとき、兼ねてから危惧されていたラリーの失業が決まってしまいます。
マリオンはクリスティンにすべて話すことで、現実を突きつけて、大人にさせようとします。
自分をレディバード と呼んで欲しいと口にしたり、ふわふわ子供っぽい考えから卒業して近くの大学に進学してほしいという考えの表れでした。
マリオンは自分も医師として働き、ラリーのように心優しいけれど精神を病んでしまうような夫を支えて頑張っている女性です。
マリオンに悪意があるとまでは言いませんが、やはりクリスティンに対して同じ女として自分と同じように家庭でのリーダーシップを取れるような女性になってほしいという考えがあったはずで、愛はあったに違いありませんが、幾分強引な感情で娘を近くに置きたいのだろうなと考えてしまいました。
クリスティンにしろ、マリオンが口煩いのは自分への愛情だと理解してはいるのですが、それでもやはり父の失業を受け入れて母と同じ考えを持てというのは酷なように思えてしまいました。
うつろいやすい恋心
クリスティンはダニーと恋人になりますが、チャンスはあるのに深い関係にはなりません。好奇心旺盛なクリスティンはダニーの言葉に喜びながらも物足りなさを感じていたところ、ダニーが実はゲイで人知れず悩んでいること、それを隠すためにクリスティンと付き合っていたことがわかり、恋はあっけなく終了します。
ダニーの祖母の家は、クリスティンの憧れの素敵な家でした。そんなこともあって、クリスティンはダニーとの結婚を夢見たりもしますが、お互いに自分の理想を当てはめるだけの恋だったのでしょう。
新しい出会いと離れていく友
マリオンと口論になったときに強引に車を降りようとしてクリスティンは腕を骨折してしまい、腕のギブスをしたままの生活が続きます。
やっと腕のギブスが外れたクリスティンは、大学進学費用のためカフェでアルバイトを始め、そこで感謝祭で演奏をしていたバンドメンバーのカイル(ティモシー・シャラメ)と言葉を交わします。
カイルの存在はクラスメイトのジェナ(オデイア・ラッシュ)から聞かされていて、憧れの存在でした。
ジェナは目立っていて可愛くて裕福な家の娘で、スクールカーストで上位の女子。クリスティンとは真逆の存在でしたがカイルとお近づきになりたいクリスティンは、これまでの地味キャラから突然お嬢様キャラに身分を偽り、ジェナに近づきます。
ジェナと親しい友人だとカイルに思われたいクリスティンは、ジュリーと通っていた演劇をやめてしまい、親友のジュリーと過ごすよりジェナと一緒にいることを好むようになります。
その甲斐あってカイルと付き合うことができるようになったクリスティンでしたが、会うごとにカイルやジェナたちとは価値観が違い、別の世界の人間であることを実感してしまうクリスティン。
しかも見た目だけでカイルを好きになったけれど、本当はそれほど好きだったわけではないことに段々気づいてくると、クリスティンはカイルやジェナから離れていきます。
「愛情とは注意深く見つめること」
クリスティンは何校か提出したニューヨークの大学から補欠合格の知らせを受けて大喜びをします。しかしそれは住み慣れた街サクラメントとの別れが迫っていることでもありました。
仲違いをしていたジュリーとは仲直りしますが、ジュリーもまた街を離れることが決まっていました。
そしてニューヨークの大学に補欠合格の件は当然ですがマリオンにバレ、マリオンからは怒りで口も効いてもらえないまま家を出る日が近づきます。
免許を取ったクリスティンはサクラメントの周辺を車で走りながら、変わりゆく季節や変わらない風景に守られながら自分は暮らしてきたことを実感します。
それでもクリスティンは街を離れます。
愛しているけれど離れる。
離れることによって見えてくることもあるから。
ニューヨークで新しい生活を始めるクリスティンは、飲みすぎて倒れ、救急搬送されてしまいます。病院で一人ベッドから起き上がり、切ない気持ちで街を歩いていたところに教会があり(カソリックの高校時代が)懐かしくなって足を踏み入れます。
賛美歌を聞いたクリスティンは、自分の名前を気に入っていること、また自分は思っていた以上にサクラメントの街のあらゆる風景を愛し、また母を深く愛していたことと感謝を告げるのでした。
母と娘の愛は難しい
愛には様々な種類があり、男女の愛でも個人により違うように、その表現の仕方も異なります。
家族といっても素直に愛情表現ができるとは限らない。
「なぜ私のことを褒めないの?」
「褒めるって、嘘をつけばいいいの?」
「違う、私はママに好かれたいの」
家族の愛、なかでも母と娘の愛情は本当に難しいものだと思います。
本作の母親、マリオンは医師でもあり超現実的な女性。
だけど鬱病で無職になってしまうラリーのような繊細な男性と結婚するくらいですから、面倒見がよく損得だけで生きている女性ではありません。
娘のクリスティが自分をレディ・バードと呼んで欲しがるなど、夢みがちでふわふわした性格なことを憂いながらも、そのことを実は誰より理解し受け止めているのは母親のマリオンなのかもしれません。
クリスティンは繊細で豊かな感性を持っている女の子。
だからマリオンのように現実だけを見続けることはできなかったし、それが無理であることはマリオンもわかっていたのかもしれません。
マリオンの本心に気づかず、母からのわかりやすいストレートな愛情表現を望むクリスティンは、自分のことを嫌わないで欲しい、このままの自分を愛して欲しいと正直にぶつかっていくところはとてもかわいかった。
これはなかなか口にできることではないと思うからです。
マリオンもクリスティンのそういう素直なところがかわいかったに違いありません。
その反面でクリスティンは、自分の家を川の向こうにある「スラム」と呼んだり、派手で遊び人の仲間には自分の家を隠したがります。
子供は家族を選ぶことはできない、誰だって(特に女の子なら)お城のような家に住みたいと思ったことがあるはずだから。
「素敵な家に住みたい」と違い「文化的な地域の大学に通いたい」と考えるのは、クリスティにとって唯一実現可能な夢でした。
映画の舞台になる地元、サクラメントを題材にした論文を読んだシスターが「あなたはサクラメントを愛しているのね」と言うところにグッときました。
それこそが成熟した本物の愛情なのだとシスターがクリスティンに暗に伝えようとした台詞だというのが伝わったからです。
サクラメントが嫌でたまらず、早く出たいといつも考えていたはずのクリスティは「ただ細かく見ていただけ」と答えます。
細かく描写することは、注意を払っていること。
「”愛情”と”注意を払う”は同じことだと思わない?」
シスターの言葉にクリスティは考えます。
そしていよいよ街から離れて一人になったクリスティンは、特に信心深いわけでもないのにふっと教会に足が向いてしまう。
そのときクリスティはときに嫌悪した自分の環境は、すべて両親が用意してくれたものであり、それを当たり前のようにして享受していたことに気づきます。
本作は 監督グレタ・ガーウィグの自伝を交えた映画で、だからこそ熱量を感じられる映画になったのではないでしょうか。
グレタ・ガーウィグの2012年の作品に『フランシス・ハ』がありますが、時期的には本作品の方が後に撮られているものの、本作品の続編的な作品ではないかと思います。
17歳のクリスティンが18歳になるまでのおよそ一年が描かれていますが、テレビの中だけで淡々と⒐11のニュースが流れているところ、神父様の病気など日常にある生死感が、サクラメントという田舎町の短調な日常と絶妙に絡んで描かれていました。
恥をかけばいい。
好きなことをすればいい。
「人は塵に返る」
のだから。
では、また。
のじれいか、でした。